走って走って、森の広場でその姿を見つけた時、肩から力が抜けた。 こちらから見ると後ろ姿だけれど、香穂子が間違えるはずもない。 驚かすとか、そんな事は考えられなかった。 ただ立っているその背中に、香穂子は手を伸ばす。 ぎゅっと額を押しつけた瞬間、くしゃりと香穂子の顔が歪んだ。 「!・・・・香穂?」 急に後ろから抱きしめられて一瞬驚いたように身を固くしたのがわかったけれど、すぐに彼は気がついたようだった。 「・・・・顔も見てないのによくわかるね、土浦くん。」 「当たり前だ。俺にこんな風にしてくるのはお前ぐらいだ。」 「・・・・そっか。」 いつも通り答えたつもりだったのに、声が僅かに掠れた。 その途端、土浦の雰囲気が変わったのが分かる。 「香穂?お前・・・・」 「振り返らないで!」 叫んだ声は今度は完全に涙声になってしまった。 「お願い・・・・少しだけでいいから、このままでいさせて・・・・」 「・・・・・・・・・・」 答えの代わりに小さなため息が聞こえた。 その音にぴくりと香穂子は震える。 やっぱり迷惑だっただろうかと思ったから。 土浦は女の子がすぐ泣くのは苦手で、香穂子にも直ぐ泣かないからいいなどと言っていたのを聞いたことはあった。 「ごめ・・・・」 思わず謝って離れようとした香穂子の耳に届いたのはさっきよりも大きなため息で。 「あのな、俺が好きな女が泣いているのに放り出すような奴だと思ってるのか?」 「え・・・・?」 「・・・・こっちだ。」 そう言うと土浦は香穂子の手を引いて、広場からは見えない木々に隠れた所へ歩いていく。 そして広場の生徒達が見えなくなった所で ―― そっと香穂子を抱きしめた。 「土浦くん?」 「ああ。」 「・・・・土浦くん」 小さな疑問符には抱きしめた腕が答え。 泣くなとも、泣いていいとも言わない。 どうして泣いているのか、何がそんなに悲しいのかも聞かない。 ただ抱きしめている腕は何からも香穂子を守ってくれているようで。 「っ・・・・!」 額を胸に押しつけて泣く香穂子の髪を土浦はゆっくりと撫でた。 いつもぶっきらぼうな所のある彼らしくないその優しい仕草に余計に涙がこぼれる。 額を押しつけた胸に、このどうしようもない悲しさが響いているのだとわかるから。 零れた涙が土浦の制服を濡らしていく。 まるで、香穂子の悲しみをそのまま土浦に染みこませていくように。 そう思って、思わず離れようとした香穂子の頬を髪を梳いていた土浦の手が捉えた。 最初は遠慮がちに、頬についた涙を拭う。 男の人にしては長くて繊細な指が霞む視界をゆっくりと動いた。 ピアノを弾く時のように ―― 否、ピアノを弾くよりもずっと優しく。 それが嬉しくて新しい涙がこぼれ落ちるのと同時に少しずつ心が優しさに包まれていく。 拭っても拭っても溢れてくる涙に土浦は困った顔するけれど、それはそのままの意味ではないと香穂子にはわかった。 だって指を追うように降ってきた唇は、泣きたいぐらいに優しくて温かかったから。 頬に、瞼に、目尻に。 触れられるたびに、あれほど体中に溢れそうなほどに溜まっていた悲しさが少しずつ消えていく。 それはまるで土浦が香穂子の悲しさを引き受けてくれたようで。 「つち・・・うらくん・・・・・」 「・・・・そんな顔、すんな。」 涙でくしゃくしゃの顔で見上げると、土浦は切なそうに目を細めてそう呟いた。 そしてゆっくりと香穂子の唇に自分の唇を重ねる。 ―― 唇が重なる瞬間、ころりとこぼれ落ちた涙は、もう悲しいだけのそれではなかった・・・・ 「ありがとね、土浦くん。」 あれからしばらく。 すっかり夕暮れも終わって暗くなった道を歩いていた香穂子が振り返って言った。 半歩後ろを歩いていた土浦は隣に並んで香穂子を見下ろす。 しばらく泣いていたから目元はまだ赤いけれど、その表情はいつもの香穂子だ。 「役にたってなによりだ。」 土浦もいつも通りにっと笑ってそう言うと、香穂子が声を上げて笑った。 「ものすごく役にたったよ。すごかった。特効薬なみに。」 「特効薬かよ。」 「うん。」 頷いて、香穂子が一瞬顔を曇らせる。 「私ね、さっきすごく悲しかった時、土浦くんの顔が浮かんだの。どうしても今すぐ会わなくちゃって思って。会いたくて会いたくてしょうがなかった。 でもきっとそれって土浦くんが特効薬だったからなんだよね。」 納得したように頷いたかと思ったら、急にバツの悪そうな顔で香穂子がこちらを伺ってきた。 「でもごめんね?いきなり泣く女の子なんて土浦くんは苦手だったよね。」 「あのなあ」 今回ははっきり呆れたような声が出た。 当たり前だ。 どうでもいい女が泣くのは確かに苦手だが(というか得意な人間などいないと土浦は思っている)、泣いていたのは香穂子だ。 一番大切な人間が泣いていたら苦手も何もあったものじゃない。 「お前、俺をどういう奴だと思ってるんだ?好きな奴が泣いてるのも受け止められないような男だと思ってるわけか?」 「え!?や、そんな事は!」 「じゃあ、二度とバカな事いうな。他の女ならごめんだが、お前は別だ。泣いていようが怒っていようが隣にいるのは俺に決まってる。」 「・・・・・は、はい。」 きっぱりと言うと香穂子は少し赤くなって頷いて、それから照れくさそうに笑っていった。 「ね、やっぱり土浦くんは私の特効薬だよ。何があっても土浦くんがいたら大丈夫な気がする。」 「そうか。」 「だからね、私も土浦くんの特効薬になりたい。」 「さあ、どうだろうな。」 「ええ〜?」 肩を竦めると抗議の声が飛んでくる。 それを笑い飛ばしながら、土浦は少しだけ思った。 男には好きな女の子の前ではかっこうわるい姿は見せたくないとかつまらないプライドがあるからなかなかできないかもしれないけれど、あの時、泣いていた香穂子と悲しみを共有したようなあの感覚が得られるなら香穂子を特効薬にするのも悪くないかも知れない、と。 二人なら悲しいことは半分に、嬉しいことは倍に・・・・なんて何かの歌の歌詞みたいだけれど。 (・・・・こいつとなら、そんなふうにできるかもな。) そう思って、土浦はそっと香穂子の手を大事そうに握ったのだった。 〜 END 〜 |